ホビットの読んだ本 -6ページ目
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豪ちゃんのお誕生日会




タイトル: DEVISUAL ver.0 デビルマン解体新書-シレーヌ編-

 11/27六本木のマキムシで、永井豪ファンクラブ主催のお誕生日会がありました。
 黒幕のYさんが来年小学校に上がる娘さんを連れて参加されてました。石森章太郎ファンクラブの重鎮Aさんとかおなじみの顔触れに一年ぶりに会い、おいしい料理とワインで話がはずみました。
 「パンダーZ」のグッズをはじめ色々な景品が飛び交っていたようです。
 永井豪先生は来年還暦だそうです。
 永井豪先生が退席された後、映画「デビルマン」についての憤懣が炸裂していました。この辺の詳しいことは、「手当たり次第の本棚」のトラックバックをご覧下さい。

『蝕・太平洋戦争1突如流れた未来電波が歴史を変えた』

 ばたばたして積読になっていた林譲治の架空戦記をようやく読むことができました。
 未来からの電波で、真珠湾攻撃が予告されてしまうというお話。登場人物の楽しい会話と緻密な考証に裏打ちされた林譲治節炸裂のシリーズ開幕といったところです。
 ドイツの新兵器について、長距離爆撃機が作れないで、Vロケットを作ったなんて、確かにその通りなんですが、新鮮です。



著者: 林 譲治
タイトル: 蝕・太平洋戦争〈1〉突如流れた未来電波が歴史を変えた!

『新鋭艦長、戦乱の海へ』




 その昔、『戦う帆船ソフィー』で出ていた本、というより、原題The Master and Commanderの方がとおりがいいかもしれません。もっとも、映画の「マスター・アンド・コマンダー」はジャック・オーブリーが「伝説の艦長」つまり、勅任艦長になっているので、もっと後の話を主に色々な巻の話を取り入れてあります。

 当時のイギリス海軍の階級は、士官候補生、海尉、勅任艦長、提督くらいのおおざっぱなものしかなく、おかげで、陸軍のように階級を金で買うことが少なかった、なんてことが書いてあったのはどこかなあ?

 うん十年前に読んだだけなんで、脳外科の手術をするとことかぜんぜん忘れていて新鮮に読めました。これも映画に取り込まれたエピソード。

著者: パトリック・オブライアン, 高橋 泰邦訳 ハヤカワ文庫NV
タイトル: 新鋭艦長、戦乱の海へ―英国海軍の雄ジャック・オーブリー (上)





タイトル: マスター・アンド・コマンダー ラッセル・クロウ主演 ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン

『教科書から消えた名作』

著者: 村上 護
タイトル: 教科書から消えた名作 小学館文庫2003年11月

 「国語愛を中心にすえた内容で国語教材としては打って付けだった」そうです。
 素直に感動している本。

 しかし、フランスの話で「フランス語は世界で一番美しい言葉です」なんてのが国語愛なんかしら? まあ、日本には同じような例がないし、フランスを朝鮮や台湾に置き換えて、日本をプロイセンに置き換えるわけにも行かんけどね(^_^;

 巻末に纏まっている「昭和59年頃まですべての小6の教科書に載っていた」なんて資料が便利。

 しかし、教科書って、いかに読書がつまらないものかという嘘をばら撒く陰謀に満ちていると思います。面白い小説からつまらない一部を持ってきて、「これ」が何を示すか? とか、作者のいいたいことは何か? というような、「重要な」ことを勉強させるわけですから。

 偶然、後で読んであんなに面白かった『赤毛のアン』も教科書の断片はつまらなかったからなあ。

 そういう意味でも、短編で、記憶に残っているということでは、『最後の授業』はある意味よくできているのでしょう。

最初の『魔界の紋章』

 ポール・アンダースン作、豊田有恒訳の『魔界の紋章』が最初に出たのは、ハヤカワ文庫のできる遥か前で昭和45年で、ハヤカワ・SF・シリーズです。当時400円もして手が出ず、古本で220円で買うにもずいぶん逡巡した覚えがあります。

『ことばと国家』



著者: 田中 克彦
タイトル: ことばと国家

 岩波新書『ことばと国家』田中克彦(1981年初版1994年第25刷)
 今の目で見るとそんなにショッキングには感じない。

・母国語と母語の違い
・アルザス/エルザス地方で使われている言葉

とか基本的なこと。
 高校の世界史レベルで分かることよりは少し知識が進むけど。

 しかし「言語的支配の独善をさらけ出した、文学などとは関係のない、植民者の政治的扇情の一篇でしかない。」というのはいかがなものか?

 「言語的支配の独善をさらけ出した」というのはそのとおりだと思います。
 しかし、小説というのは、必ずテーマがないといけないと習ったのだけど、「フランス語の世界征服は素晴らしい」というテーマだといけないのかなあ? 

 『西部戦線異常なし』は反戦小説だからいい小説。というのはだれでも思うのかしら? 小説として出来がいいのとテーマに賛成とは、切り離しにくいとは思いますが。

 『最後の授業』は「プロイセンが憎くて、アルザスを返せ」という動機で書いたものなんでしょうが、主人公の名前はフランツだし、フランス語がかれの母語でないことも隠していないし、感動させる上手いつくりの話ではあると思います。

 まあ、ちょっと世界史や言語の知識があると感動しにくいのも確かだけど、それはテーマが気に食わないというだけも問題で、それが「文学」かいなかを決めるものなのでしょうか?


『最後の授業』のこと

http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~kwatanab/daudet.htmを見ると、最近は『最後の授業』は教科書に載っていないそうです。1981年『ことばと国家』(田中克彦)によって追放されたようなことがかいてあります。

しかし、1960年代終わりに高校生の頃、「臭い話」という共通認識があったと思います。そのときの批判点は、

・そもそも、アルザスが直近にフランス領になったのは1697年でローレーヌは1776年(昭和43年版山川出版『世界史小事典』)
・ドーデの原作では、フランス語がかれらの母語でないことは隠していないのに教科書では変更されている。

偕成社文庫『最後の授業』(1997年初版)では、「フランスのことばを話すことも、書くこともさっぱりできないじゃないか。」とあるのですが、岩崎小学生文庫版(1982年初版)では「フランス語を読めも書けもできないじゃないか!」と「改竄」されています。教科書でもこれが行われたと批判されたと記憶しています。

なんて、うちのかみさんと話していたら、「そもそも主人公がフランツで胡散臭いと思った」そうです。まあ、高校生くらいになったら、ドイツの名前とフランスの名前の区別くらいつきます。

色々調べないと。
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